YouTube Transcript:
沈黙を読んで考えた信仰の弱さと強さ
Skip watching entire videos - get the full transcript, search for keywords, and copy with one click.
Share:
Video Transcript
View:
ハレルヤ歯協会の三浦亮平です今日はね
こういうテーマでお話しします沈黙を読ん
で考えた信仰の強さと弱
さえ目次
ですまず1番目正直な感想ね小説沈黙を
読んだ正直な感想で感じた違和感について
お話
で2番目にぽっかり相たな進学的欠損背景
にねまこういうことがあるんじゃないかで
3番目え結論になりますね信仰の弱いもの
強いものって何だろうっていうのをねえ
考えていきたいなと思い
ますはいまずね正直な感想いくつかの違和
感ということですけれど も
も
え沈黙という小説ねまとってもあの有名
ですよねあのでも私これまで読んだことが
なくって今回初めて読みましたというか
遠藤修作誌の作品読んだのも初めてかな
はいなんかこれまでね縁がなかったんです
よねまでもますごい影響がある小説なんだ
なっていうのが分かってですねまあ1度
読んでおかねばなる前かね結構ノン
クリスチャンの人でもねクリスチャンで
ない人でも沈黙をネタにまキリスト教って
こういうものだとかねお話してる方は結構
いらっしゃってねどんなもんだろうと思っ
てねえ読んでみたわけです
ねで荒し筋ですけどもまあのあ思いっきり
ネタバレしていきますので
まだ読んだことなくてこれから読もうって
方読もうと思う方でネタバレやだなって
思う人は聞くのやめといてくださいねはい
であらすじですけどもえフェレイラ主催
っていうね尊敬する死であるフェレイラ
被災が日本で起きしたま舞台はねあの
キリス選挙に対する迫害が厳しかったその
時代の日本が部隊であるわけですけども
フェデラー日本で起きしたという知らせが 入っ
入っ
てでま衝撃だったわけですねでそれを聞い
てま弾圧が強まる日本に岡に渡ったのがえ
ロドリゴ被災ねま仲間と一緒に渡るんです
けどま彼が主人公です
そしてこのロドリゴ被災が日本で過酷な
迫害を目撃して自らも体験してでま順調
する人々の姿が描かれ
てで最後にロドリゴ被災が至った結果結論
まそれがねハイライトになっていくわけ です
です
ねで主な登場人物ですけど
も主人公ね主役がロドリゴ主催ですね
カトリックの主催です
ねで彼のがこのフェレイラ
被災で一緒に日本に渡った同僚明雄ですね
えガル
ペシでこの物語のまね木をね鍵を握るのが
ま吉次郎という人物でま一向の案内役に
なっていくわけです
ねでま彼はま何度も転んだま転んだっって
いうのは何度もきき何度も聞きて変な感じ
ですけどねま何度も転んだえま一応新と
ってことになっているわけですねでまず
あのま個人的な感想ですけれど も
も
えっとねま当時のねこの過酷な弾圧日での
実際にね順調した人たちがたくさんいた
わけですよね準教者に対する思いをはせ
るってことはねねありましたま色々考え
させられましたじゃあこの物語本編につい
てはどうかって言うとですねなんかあの
もう最後の最後までなんか全然あの気持ち
動かなくってあの没入するねもうそういう
ことなくてもう最後までなんか気持ち冷め
たまんまでしたね
はいまこれまで縁がなかったけどまあそう
いうことだなって改めて思いました
ねでま独語に残ったの
はま感動とかねまそういうこともえなくて
ねなんすごい違和感ばっかり残ったという
のがねま正直な感想
ですでまいろんな違和感があったんです
けどもまずカトリックの信仰に対する違和
感ですねまこれどうしても感じるとこです
よねま私はあのプロテスタントのはいえ
福音派のまその中でも
ディスペンセーション主義っていうまあ
言う人に言わせればかなりゴリゴリな原理
主義者みたいなところに立ってるんです
けどプロテスタントの中でももう1番
あのまそういう原理主義者みたいなねそう
いう風に言われる立場なんですけどもま
元々カトリックとはねかなりあの隔たりが ある
ある
わけですけどもまやっぱりね違和感は色々
感じました
ねでこのね本書の土台ってのはま
カトリックの信仰であるわけですよねま
日本にえ当時不教に来ていたってのは
カトリックがもうメインであったわけです よ
よ
ねでま秘跡ってのはカトリックでは強調さ
れますま7つの秘跡ってのがあってまその
辺の理解もプロテスタントとは随分違うん
ですよねプロテスタントで重要な秘跡って
2つしかないですからねえ洗礼バプテスマ
とえ生産ねこれにあのえカトリックの秘跡
って色々あってまこの本書の中ではもの
その秘跡の中でも度々出てくるのはこの
国会っていうことですねこの被災のところ
に行って罪を告白したら許されるよって
いうまそういうことですねまこれ主催だけ
ができるとされているものです
ねでカトリックなのでやっぱりマリアて
いう存在がねよく出てきますよねえマリア が
が
えキリストとの間の仲介者まそういう
位置付けですよねだからあのメデタ成長
みちるマリアっていうあのマリアを仲介と
する祈りを唱えながらそれを数をカウント
してってそのカウンターがあのえロザリ
オっていうねあの日本の術みたいなあれ
カウンターなんですよねあの目し成長みみ
のマリアてふふんって数えながらあの
カウンターしていくってものなんですけど
もだからまマリアに対する呼びかけとかね
祈りの言葉とかねあマリア様みたいなま
そういうことも出てきますよねま
カトリックの人に言わせれば別にあの
マリアを崇拝してるんじゃないこれは数計
なんだというわけですけども
までもこれはカトリックだってはっきりし
てる立場ですけどもマリアにをえ神格化
するようなそういう聖書の箇所ないんです
よねだからそれはカトリックも分かってる
のでそれは聖書にはないけど伝承であるん
だていうねまそういう立場になるわけです よ
よ
ねであとねやっぱり違和感感じた場面の1
つでそのロドリゴ被災がねま日本に渡って
くる途中でえっとシンガポールだったか
インドだったかによった時にあの
フランシスコザビエルのお墓に行くとで墓
詣でするんですよね毎日のように墓に漏出
たまこれ事実そうだったのかってわかん
ないですけどもまカトリックでねフラン
シクザビエルってま成人とされているん
ですよねまロドリゴの時にはもう成人に
なってたのか
なで成人ってっていうのがまたあの守護
成人とかいてねその守護成人の名前をその
洗礼で名でいだいたりとかねなんかそう
いう存在があるんですよねだから非常に
あの特別な存在になってるんですけどこの
フランシスシスコザビエルの墓詣を毎日し
てそして日本選挙への思いをね高めていっ
たみたいな話があってまそういうところに
です違和感2つ目ですけどもやっぱりま
なんで没入できないかって言うとなんかね
あの背後に作者の意がどうしても見え
ちゃうんですよねなんかチラチラチラチラ
見えちゃってまそれもあの物語りに
入れ込んない原因の1つだったなって思う
んです
ねでエンド修作ってどういうあの進行の
背景があるかって言うとまカトリックでっ
ていうのはお母さんだったかなま
カトリック信者なんですよねでカトリッ
クって幼児洗礼っていうのがありましてだ
からまプロテスタント一部でもあります
けどまだ生まれて間もい頃に洗礼を受ける
んですよねでその時点からもうカトリック
信者に監督されちゃうのかな
うんでプロテスタントのねま私たち私の
立場もそうですけどもね信仰ってあの自発
的な応答でなければならないと考えるので
その自由な意識で判断できない時点での
洗礼バプテスマってね意味ないよねって
いう立場なわけですけどねまとも各にも
遠藤修作士はこの幼児戦理も受けていてま
だからカトリック京都なんですよまでもま
熱心なしとというわけでもなかったよう です
です
ねこのまあくまでもだからこのカトリック
教徒で幼児洗礼を受けたけど特別え熱心な
信徒でもなかったていう遠藤修作から見た
キリスタン迫害の出来事っっていうまどう
してもねこの背景が読んでてもちらつくん
ですよ
ねねだからまそういう感じるのはこの遠藤
集作の視点とか思いを映させた物語でま
特にその投影してるのがこのロドリゴ
あるいは吉次郎とも言えると思うんです
けどもだからなんか
ね現代の日本のキリスト教のカトリック
信徒の遠藤修作の東平っていうねなんか
すごいそういうことがねちらつくんですよ
ねなか同じような立場の人はすごい響い
たりするのかもしれないですね
で違和感の3つ目ですけども
えなんかね物語的なお約束ってありますよ ね
ね
あの外国人出てきたはずなのになんか普通
に会話してるみたいなのってありますよね
異星人やってきたのになんか普通に話し
てるじゃんみたいなことってあるんです けど
けど
あのロドリゴはね
えポルトガル人かねで日本に到着するやい
やなんか流暢な日本語で
コミュニケーションしてるんですよねで
けどえって感じなんですよそこがねんえあ
あなたいつそんな流暢な長崎弁理解できる
ようになったのみたいなあるいはそんな流
長に日本語喋れるようになったのみたいな
とこはもうすごいクエスチョンであのそう
いうとこ気になり出すとあの本当にもう
物語ってもう没入できないじゃないですか
だからねいやこれどうなのかなってあの
物語の形としてどうなのかなってことをね
あの感じてしまいまし
たあと前半と後半であの視点が変わるん
ですよねだから前半は主催の視点ねあの
ロドリゴの視点でねクリスえセバスチャン
ロドリゴの所管みたいみたいな形で書かれ
ていくので1人称で私はって書かれていく
んですけど後半になるとそれがねいきなり
3人称になるんです
ようーんこれ1人称なら1人称で通した方
が良かったんじゃないかなっていうねまた
それもすごく違和感があってですね結局
この俯瞰の視線視点って一輪称にしても
俯瞰の視点にしても遠藤さんあなた
でしょっていうようなのがやっぱり感じ
まあねだからこれも本当に不自然に関した
ところですで違和感の4つ目ですけどあの
信仰しかもね順境について取り扱ったえ
小説であるにしては聖書引用してるのが
ねなんかすごくまあ少ないんじゃない
かっていうね圧倒的に少ないんじゃない
かっていうことですねで用されてるところ
もねあのまあ一般的なあの読者を想定した
からかもしれないですけどもそういう限定
されてるんですよねま福音書とか使用な
ねねまそういう引用されてる所管も限定的
なら聖書の適用もねその政権どう適用し
てるかってところも色々クエスチョンで
はい
でま色々違和感があってでま根本的に抱い
た疑問っていうのはこういうことですねま
岸次郎であったりロドリゴ被災であったり
そして何よりこの作者の遠藤修作士です けど
けど
も彼ら本当に進行者なのかっていうのが
最後にもう浮かび上がったまあ最初から
浮かび上がってま消えるどころか強まって
いったこういうクエスチョンでし
ただからこれは進行の物語というよりは
信仰未満まだ信じるところまで行ってい
ないま旧道者ですねま旧道者って言います
けどその旧道車の物語なんじゃないかなっ
ていうことをええすごく感じた次第です
はいじゃ2番目ぽっかり開いた穴進学的
欠損はいえパライソって言葉が出てきます
ねこれポルトガル語なんでしょうけども
天国っていうことですよ
ねでま登場するシトの口からねえ度々出て
くるわけですねでこんなねあの彼らのま
賛美科ですねえこういう歌も出てきてね
マロマロパライソの寺に
マロま彼らがま礼拝まミサですかねにま
そういう歌であると思われますけど形状に
向かいながらねえ彼らがこの歌を歌ってい
たっていうのでね繰り返し出てきますねえ
パライソねだからこの教にう信徒たちが
自分たちはパラソ天国に行くんだまその
希望を持ってえ向かっていたんだってこと
がねよく現れていると思いますま実際に
そうであったということですよ
ねでパライソって言葉はですからまシト
たちの口を通して度々出てくるんですけど
もじゃあパラゾって何かっていう話は書か
れていないんですねほとほとんど
ほとんど書いてないです
ねで言及がないとで主催であるロドリゴの
口からもパラソとは何かってことはね語ら
れないんですよ
ねなんか目の前の
現実に心を動かされているって感じの描写
ですか
ねまですからこの本編の中でパライソ天国
ま神の国と思いますけどその希望がま具体
的に語られることはま一切ないということ
なんですねますごい違和感があるわけです けど
けど
もじゃ中教した人人はどうであったかって
いうのはま本編でもね作中でも歌われて
いるようにパライソにくっていうのは希望
だったわけです
よ自分はねこれから死ぬねこのは滅びる けれど
けれど
も自分の例は魂はパラソに行くんだって
ことがそれが希望であったわけですよ
ねでまキリスト教のね歴史を振り返って
みれば多くの准教者たっていうのはもう
パライソね天国神の国が希望であったわけ
ですよ
ねでこの天国に希望を置くま週末的希望ね
週末に希望を置く週末的希望というわけ
ですけどもこの週末的希望が実際に信徒
たちを支えたであろうと思います日本の準
教者たちもそうであったであろうと思う
わけですがその週末的希望解かないんです
よロドリゴはえあなたは彩でしょっていう
今目の前にいる信者に語ることができると
すればしかも教に向かう信者に語ることが
できるとすれば教ねその週末的希望しか
ないでしょうってところでねロドリ語ら
ないんですよ
ねでロドリグって最初からあのへたりなん
ですよあの最初からま最初のねえ信徒たち
の住居に接する時もま捕まっちゃうわけ
ですけどももう不っていうわけですよね
いやあなた言っちゃダメでしょうていう
最悪だなと思って彩が不って言ったらそれ
こそ自分たちの信仰何だったのかっていう
ねとんでもない裏切りだなと思うんです
けど最初からねロドリ語ってそういうこと
口にしてるんですよねだもうその時点で
もうすでにクエスチョンねこの人本当に
信じてるのかなってクエスチョンがその
時点でもつくわけですけどもねで週末的
希望もまもちろん語らないって感じですよ
ねでじゃあなんでそんなに欠損してるのか
まそれは作者の遠藤修作がそうだったから
というのはもちろんあるんでしょうけれど
も実際にどうだったかって言う
とまカトリックというか教会の歴史をね
振り返ってみてもこの週末的希望っていう
のはま随分薄れていたんだと思います
で教会イスラエルから始まるわけですよね
あくまでもメシアはイスラエルにユダヤ人
に約束されたユダヤ人のメシアとして来
られて最初に信じた弟子たってみんな
ユダヤ人だったわけですよねまそれが
異邦人にも広がっていってでやがて異邦人
が教会の中心になっていくわけですねま
違法人特にあのカトリックの場合には
ヨーロッパ人ですよね欧州人が中心になっ
て行きましたでそういう中で本来のヘブル
的ねヘブル的つまりユダヤ的イスラエル的
な本来の要素っていうのが排除されていく
わけですねまさらにはあのユダヤ人って
いうのはメシア殺しのねキリスト殺しの民
だっていうのでまそれが非常なあの
ユダヤ人に対する迫害差別でま最終的には
それはねナチスによるホコストにまで
繋がっていくわけですけど
もそうやってあの本来のヘブル的な要素が
排除されてしまってでそうなるとね聖書
ってなんか分かんなくなるんですよね
イスラエルがも中心にあるねだけどそれが
なくなってしまう
とだからイスラエルについて書いてある
とこどう解釈するのかね予言象を見ていく
イスラエルについてのさきがあるとあこれ
はあの
ユダヤ人についてだでイスラエルを祝福し
ている箇所があるとこれは教会のことだっ
ていうねあのすごいあの都合のいいあの
解釈がえ主流になってきますしえ予言され
た聖書に記された週末ってこともねなんか
気迫になっていくわけです
ねで実際にはこの地上の教会非常に力を
持っていくわけですよねローマのの国境に
なってま国家権力と一体化してすごい権力
を持ってま数の上ではま膨大なキリスト
信者ができてくわけですよねで世界選挙と
なるとま様々な国にポルトガルが行って
それにくっついて選挙士たちも行ってで
行った先々でわっと信者が増えてこれに
よってだからこの教会も拡大していくん
だっていうね
そうやってこの地上に神の国が広がって
いくんだまそういう価値観がま当時土台に
あったのであろうねだから自分たちがもう
ね教会であって神の国で自分たちの教会が
拡大することが最終的な神の国の実現に
つながっていくんだって考えたら週末に世
の終わりにメシアがやってきてキリストが
やってきて神の国を打ち立てられ
るっていうそういう約束ってどうしても
薄れていきますよねまそういうことがあの
週末論が気迫になる背景としてね
え大きな影響を与えていたと思われ
ますで当時のカトリックのね世界選挙の
背景まカトリックっていう言い方はあのえ
行動の教会っていうかま普遍的とかそう
いう意味なんですよねカトリックこそが
普遍的な教会であるねでこのリックが教会
が全世界に拡大して神の国は完成する
ねそうなるとこの成長が頓挫してしまっ
たら希望も薄ますよね日本で不興して日本
で信者がわって増えてる時期は良かった
けれども迫害が始まってこの頓挫して
むしろあの減少していくってなるとね希望
もなくなっちゃいますよねそういうもさも え
え
まあ持ってたんではないかなと思う次第
ですまそう考えると日本に対する不況が
なされたけれどもそこには本質的にこう
いう脆弱さ本来の教えを離れてしまったが
故のね週末論的希望が薄れてしまったが故
の脆弱者え脆弱差があったんではないかね
そういうことがま現にあったようです
けれども主の貴教というようなことにね
繋がっていたのではないかと思われ
ますまですからま当然のことであるわけ
ですけど週末的な希望なしに順調なんて
ことにこれ耐えられるわけがないわけです
ねで信徒の苦しみっていうのもねこれ意味
のないものになってしまい
ますまロドリゴ主が最後に起してしまう
わけですけどもま当然の帰着であるなと 思い
思い
ますじゃ最後ね結論ですけども信仰の弱い
ものと強いものと
はえ騎士次郎がねまこんな主張してるん
ですね信仰の弱いものと強いものがいるん
だま自分は信仰が弱いんだねでこれ
生まれつきで仕方がないんだどうしようも
んだだから俺はふえを踏むんだっていう
わけです
ね仲間を裏切るのもあのロドリゴ被災も
この吉次郎に裏切られて売られるんです
けどもで主を裏切るのもこれは弱さから
出会ってもどうしようもないことなんだっ
ていうのをま吉次郎はねえ度々主張する
わけです
ねじゃあそれはねその弱さっていうのは
聖書が言う弱さなのかと問われますで
ロドリゴ被災ですけど
もあの最後ね踏み絵を踏むんですよねそれ
についてねこう言ってるんですよねふが
あの方がいったこうあの方って書いてある
んです
ねぼかしてあるところがあのまあ
ちょっと直接は書けなかったんでしょうね
遠藤修作はね
はいであの方が言ったとであの方はこう
言ったって言うんですねお前たちの痛さと
苦しみを分かち合うために私はいる井にも
なすがいいと言ったねあの方が言ってま
つまにキリストが言ったんだと不と言った
んだというんです
がそんなことをイエスは本当に言っている
のかということですね言っていないのに
行ったっていうのはこれ偽予言者ですから
ねまあのどっちかでしょう真実かそうで
ないかそうでないかていうそうでないって
ことになればロドリゴは偽予言者になり
ますし遠藤修作もそういうことになります
ねでロドリゴは最後に何をやってるかって
言うと気強したロドリゴのところに吉次郎
がやってくるんですよねで罪を国会をして
くれと
行ってでロドリゴは最初断るんですけども
いや吉次郎に押されてねそれ引き受ける です
です
ねでこんな風に言うわけですじゃこの私が
唱えよとねそのま国会の祈りの言葉を唱え
てねま安心していきなさいというわけです
安心していきなさいてこれイエス様の言葉
から来てますねイエス様が癒しを求めきた
人の病いを癒されてまそのその人がね
イエスはキリストだこの方なら癒して
くださると信じたがゆに癒されてそして
その癒された人にね安心していきなさい
これからもう罪を犯してはなりませんと
いうわけですけどまその言葉が国会の言葉
に用いられているっていいうことなん
でしょうでこれも怖いだなと思ったんです
がロドリゴ自身がねこの神と人の仲介者に
なってるわけですよまそもそも国会って
いうこと自体が疑問なんですけど
も私たちクリスチャンと神と間の仲介者は
キリストだけなわけですだからキリストに
悔い改めるわけですねそこに誰か必要ない
んです
よその主催のとこに行って国会しなきゃ
いけないなると被災がこの仲介者になる
わけですよ
ねまその構造自体がおかしいわけですけど
もロドリゴはそれをね転んでからもやっ
てるとしかも自分の理屈でそれをやって
るっていうねさらにあのことが重大
です仲介者はイエスだけではないのかなぜ
あなたがイエスにキリストになり変わって
いるのかということ
ですで聖書のさですけどもえイエス様こう
言われていますマタ福音書26章41節
誘惑に陥らないように目を覚まして祈って
いなさい霊は燃えていても肉は弱いの
ですえイス様がね捉えられる直前に月世の
園で最後の祈りを捧げていたその間弟子
たちはもう眠りこけたんですね
あのこういう時の眠ってしまうってのはま
肉体が疲れていたってのもあるでしょうし
何よりあの心が閉ざされていたのかなって
いうのがね伺われるわけですけどもこの時
ねで1番弟子がペテロであったわけです
けどもペテロもね集をさらしていますえ
3度もねイエスなど知らないと言って
しまったねあいつお前の仲間だろうて言わ
れていや知らないまそれを3度も繰り返し
て3度目にはなんか呪いの言葉すら口にし た
た
とその瞬間鶏が泣いてイエス様が事前に
警告されてたわけですねあなたは今晩3度
私を知らないというよいや決してそんな
ことはありません他の誰が裏切っても私は
そんなことありませんって断言していたの
にこういう
情けない結果が待っていたわけですでのを
聞いてねペテロはもシエスの言葉を
ねまこのように信仰者が抱える弱さって
いうのは確かにあるわけですで信仰者が罪
を犯すこともあり
ますえ信仰者にも罪があるねそのことが
記されていますヨハネの手紙第11章8節
もし自分には罪がないというなら私たちは
自分自身を欺いており私たちのうちに心理
んしかし悔い改めたら許されるっていう
ことも記されていますヨハネの手紙第11
章9
節もし私たちが自分の罪を告白するなら神
は真実で正しい方です
からその罪を許し私たちを全ての富義から
ますで3度イエスを知らないと言った
ペテロは食い改め
ます号泣してそしてイエスを求めて従った
わけです
ねそのことがよく現れているのが復活した
イエスが現れてねでペテロに私を愛する
かって3度訪ねるわけですねサンド知ら
ないと言ったペテロにサド私を愛するかと
言われたでも答えられないんですよね直接
答えられなくってすごい遠回しに言うわけ
ですペテロはね私があなたを愛してること
はあなたはご存知ですっていうそういう
遠回りな答えを言うまでもそれが精一杯
だったわけですが確かなのはイエスの招き
に答えたんですねで私の羊を買いなさいと
いうねその促しにも応答してそしてペテロ
はえ弟子としてそして弟子たちのリーダー
として用いられていくことになるわけ
です一方悔い改めを拒んだのがユダ
ですえ最後の晩餐でイエス様ねラスト
チャンスを与えられんですよねペトロが
裏切っているっていうのはご存知であった
わけですけど最後の晩餐捕まる直前のその
大切な杉越しの祭りの食事の場でイエス様
はユダだけに分かる呼びかけをされるん
ですよねこの中に裏切り者が
いるでみんな誰のことかわかんないですね
弟たちねだからまさか私のことではとか
言っても外ざわついたわけですけども
これすごいポイントなんですけど他の弟子
たちは誰1人ユダを疑わなかったんです
ねユダは1人分かってねあバレてると思っ
て逃げる前
に捉えなきゃっていうので密告するために
その場を立ち去るわけですねだけど
立ち去るユダを見ても誰も疑ってないん
ですそれでもねなんかイエス様言いつけ
られたのかなぐらいにしか思ってなかった
この時イエス様ねあなたのしようとしてる
ことをしなさいと言われてでユダはイエス
を売り渡すために去っていったわけです
けどこの時点でもねチャンスあるんですよ
ねこの時点
で悔い改めてれば罪は許されていたはず
ですよねしようとしていること本当になす
べきことはイエスの前で食い改めること
でしたしかし彼はそれをしなかったわけ
わけです
ねえユダは自ら破滅を選んでしまい
ますでユダとペテロと違うのはユダは後悔
はしたけど悔い改めはなかったということ
ですで私は正しい人をめてしまったという
のでえ儀式的な食材をしようとするんです
ねなので神殿に行くんですけれども祭祀に
断られるわけですね知ったことかといって 断ら
断ら
れるです
からまユダにしてみればま裏切りですよね
でその後ユダはま当て付けで自殺して
ねでそのでユダはこの首を吊ってでその
死体はえゲヘナを表すゲヘナて永遠の滅び
ですけどもゲヘナを表すベンキノムの谷え
イスラエルのね
え南の方にある谷ですね元々はあのゴミ
捨て場になっていてでイスラエルが偶像
礼拝に陥った時にはここでま子供を犠牲に
捧げるまそういういしい儀式も行われてた
ペヒノむと言われる谷ですけれどもそれが
転じて下なえ永遠の滅び地獄を指す言葉に
なったわけですけどもそこに投げ捨てられ
たこのことが示してるの
はユダはまさばかれた永遠の滅びに落ち
たっていうことですね死んだ人の行き先
それがもう明確にもう地獄に落ちたって
いう形でね書かれているのはユダだけと 言え
言え
ますでペテロというだ何が違うのかという
ことですけども結果が示しているのは
ペテロは悔い改めたでもユダは滅んだと
です唯一の違いベテルとユダの唯一の違い
それはキリストの前に食い改めたかどうか です
です
ねその2人の結果がその悔い改めたかどう
ますでキリストの十字架の死これは全ての
人のため全ての罪人のためにキリストは
十字架にかけられたわけ
です聖書が前提として記しているのは人は
誰もが滅びに至る罪人であるということ
ですえ誰もがどこか弱さを抱えているわけ です
です
ねでま私たちみんなでこぼこなんですよね
どういう部分が弱いのかって人によって
違うわけですよね人によってお金に弱いと
かね性的なことに弱いとか支配欲が強い
すぎるとか
ねで
自分とは弱さが違う人に対してはねなんで
あんなことしちゃうんだろうっていうわけ
ですが自分の弱さはコントロールが効か
ね私たちは誰もがみんな罪人であって弱さ
を抱えているその私あなたのために主
イエスキリストは十字架で死なれ葬られ
しかし死を打ち破って活され
たこれが聖書の私救い
ですそして救いは信仰と恵みによります
エペソびへの手紙2章8
節この恵みの故にあなた方は信仰によって
救われたのですそれはあなた方から出た
です信じたこの信仰に対する一方的な恵み
が救いっていうことです
ねそして信仰の成長もまた恵みによると
記されていますペテロの手紙第23章18
節私たちの主であり救い主であるイエス
キリストの恵みと知識において成長し なさい
えコリントの第13章6節で成長させたの
は神であるとあり
ます信じて救われた
そして次の段階はその信仰がね成長して
いくことを求められていくわけですが成長
もまた信仰によって与えられ
るっていうことですね自分で頑張って成長
するのではない信仰が成長するのも神に
よるのだだということです
ねだから信じて成長して信じてえ信じて
救われて信じて成長していくね信じたもの
は御言葉を信じて成長させられていくって
ですですから信仰っていうのは全てが恵み
です恵みね神から一方的に与えられるもの
ですね自分で頑張って獲得するものでは
ない獲得できるね頑張って獲得できるもの
ね罪弱さのあるものがただ福音を信じて
た信じ信じ続けているそれは恵みによるん
ねですから信仰というのは意思の強さに
よるものではありません人には誰もそんな
ね聖書が言う本当の弱さとは
何かえまこれはまず私が体験的に知らされ
てきたことですけど
もま我が家のね息子はダウ章という障害が
あってで教会に繋がってる子供たちもね
そういうえ何らかのね障害地的なあるいは
身体的なね発達障害とかまそういった障害
を抱えた子が多いんです
けどま本当の弱さを弱さがある子供たち
ですよね実感してきたのは本当に弱い立場
に置かれた人っていうのは自分の弱さを
言い訳にしないないってこと
です弱いからできないんだっていうのはね
これはね
あの言い訳だなと思うんですねで自分の良
さを言い訳にできる人っていうのは言い訳
にできるんですよそういうそういう頭が 働く
働く
まあそうですねそう言い訳をするという力
は持ってる人だなってことをねすごく思う
んですねだから私は弱くて何もできないん
ですって人がいず自分のえ身を守るとかね
え自分を正当化するってなったらすごい
あのすごいリスでえ反論してくるなんて
体験も何度かしましたけど
もだ
から自分の弱さていうのがねあの身を守る
術になってるね言い訳のまネタになってる
まこの特に今の時代ではそういう傾向がね
すごく強いなと思うんですね私は弱い弱
いって言ってる人が本当に弱いのかって
ねで聖書の弱さ聖書の弱さっていうの
はもう嫌なしに弱さを思い知らされて
打ち砕かれたものていうことですねもう具
の根も出ないわけです
よ私は弱いからうんぬんとかいうことも
できないねもう自分の弱さを言い訳にする
余地すらないでもそれが聖書
に書かれている打ち砕かれた人々の姿です
ねイエス様そういう人のことを指して心の
貧しいものは幸いであるとことん打ち砕か
れものは幸いだななぜならその人はもう主
にすがるしかないからだだから幸いなん
だっていうことですねペテルはそうなった
わけですよ私だけは絶対に裏切り裏切り
ませんって言っていたのに3回も知らない
と言ってね呪いの言葉そら口にしたもう何
もないですよねもう弱さを言い訳にする
余地すらないもう粉々に打ち砕かれてね
号泣して主にすがるしか
ないねだから復活した後もねどうも
すっきりしてないんですねペテロっていう
人はね度エルサレムで復活したイエス様に
会ってるんですよねイエス様にその時に
ガリレアで会おうって言われ
てイエス様そのそこから一旦姿消すんです
ねで弟子たちはガリレアに行くイエス様と
最も長い時間を過ごししたのがガリエラ屋
であってそこで待ってるけどなかなか
イエス様来られないそれできれずにえ両に
出てま秋を紛らわそうとしたんですかねで
も何も取れないそこにイエス様が現れて
ねイエス様が食事を用意してくださってた
若いの食卓ですねでそこでイエス様ペテロ
に私を愛するかって3度言われたねペテロ
何もできなかったわけですよねもう粉々に
打ち砕かれて復活したイエス様にあった
けども自分のその心っていうのは砕かれた
まんまなんですよねだからイエス様待つ
しかない待つことしかできないでも待って
いることも待ちきれないね量に出ちゃうっ
ていうね本当に砕かれきった心が記され
てると思いますけど
もだからもうその時のペテロってもイエス
様すがるしかないんですよねだからイエス
様が岸辺から声をかけられてね子たちを
何か食べるものありますかねで最初に
気づくのはペテロじゃなくてヨハネの方な
んですよねああの方だイエス様だで気づい
てペテロはもう飛び込んでイエス様の元に
向かうこれだけですよねもう心は粉々に
砕かれてるわけですよねでイエス様って
いう時にもうもうそこに向かうしかないね
もうすがっていくしかないそして促される
ままにも使わされていくしかないっていう
ことです
ねでこの時のペテロももはや弱さをね
言い訳にしたりはしていません
ねそんなうちもなかったわけですねただ主
で沈黙の中のえ主人公のロドリゴですけど
もすごいねあのま自己同着というかねま
自分に浸ってるまそんな感じがしてなり
ませんこんなこと言ってるんですねもう
すごい言い訳の塊りだなと思うんですけど
もま自分を正当化していってるわけですえ
自分は彼らを裏切ってもあの人を決して裏
はいない今までとはもっと違った形であの
人を愛している私がその愛を知るためには
今日までの全てが必要だったのだあの人は
沈黙していたのではなかっ
たまロドリゴのねこの主張を裏付けるよう
な聖書の言葉はありませんねむしろま相反
するもの
ですね私はま裏切ったって言ってるんです
よね被災でありながら信徒たちを裏切った
でもあの方は裏切ってないっていうね体
名前が言えないっておかしいですからね
イエス様て言えないその名を呼べないって
こと自体が
ね本当にすごく重大なことですね顔と顔を
合わせた関係をイエスね神は求めておら
れるイエス様は求めておられるそして
私たちはの名を呼ぶことができるこれが
信仰者の特権であるのにロドリゴにはそれ
ができないまそれはそうだと思い
ますま本当に盗作してるなと思うんですね
聖書にあるのは神を愛することと兄弟姉妹
を愛する隣人を愛するねその2つのことは
1つのことだよっていうことですね兄弟
姉妹を裏切るならそれは神に対する裏切り
だだってこと
です兄弟姉妹を裏切りながらイエスを
裏切ってないなんてことはないんです
そんな主張すること自体がロドリゴが本当
に盗作にその極に陥っているということ
ですで食い改めはないわけですよね自己
え神への愛と隣人愛それを信仰の確信とし
てシエスが告げられていますマタイ22章 3739
3739
節あなたは心を尽くし命を尽くし知性を
尽くしてあなたの神主を愛し
なさいあなたの隣人を自分自身のように
え多くの場合ね人が弱さと呼んでいるもの
は本当の弱さではなくてずるさ卑怯
さ全く別の事柄 です
しかし吉次郎ロドリゴ彼らは神に反抗し
続けてるわけですねまあ自分に弱さを与え
たのは神だ神様のせにしてるんですよ
ねで
結局自分の良さ認めていないねそれが自分
の中から出たものだっていうことを認めて
いないんですよ
ねもう言い訳に収支しているわけです
ねだから弱さを認められないまあん
でしょうねまあ謝れないとか巻を認められ
ないっていうのと一緒ですよねもう自分の
プライドですよねそれはねだから表面的に
は弱さを口にしながら実は自分の弱さを
認めていない自分のプライドにすって神を
責めてそしてあるいは自分自身が神になっ
てるわけです自己正当化して聖書の原則も
ねじ曲げてこうなんだと自分の思いを神の
思いにすりいねあの方がこう言ったんだ
それはキリストではありません
ねそれは自分の願望あるいは神に背く霊的
ねま沈黙という小説についての結論こう
なりますこれは信仰の物語ではなくって
信仰未満の球道者の物語だっていうこと
ですこれはその元の出来事がそうだっ
たってことではありませんからね順調した
人々が確かにいたその人たち
はやはりメシアにキリストに希望を置いて
いたと思います週末的な希望パライソ天国
ですねイエスがもたらされるパライソ天国
に希望を置いて状況したと思いますこの
小説においてはしかしそうではない信仰
未満の旧道者の物語であると言わざるを得 ませ
ん吉次郎もそしてロドリゴも真実の食い
ためには至らない
ままえこの小説は閉じてい
ます彼らが体現したこと遠藤修作が記した
のは人の罪と不審こそのものであると言い
ますだからまこの先は分かりませんよねで も
も
ねえ彼らが生きている限りは悔い改めに
至るチャンスはあるわけですよねこの先に
彼らの本当の悔い改めと救いがあるかも
しれないでもまだそこには至っていないね
至る気配もないこれがこの沈黙という
小説であると思い
ますで進行者が告白できることね
順境重たいことですよねじゃああなたに
状況できるのかと言われてはて答え
られる人はいるんでしょうか
ねで教者本当に教者となった人たちは誰
よりも自分の弱さを知っている人だと思い
ます私は順調に耐え
られると口にして順境に耐えられた人
なんていないと思い
んまた迫害に耐えられるね断言できる人も
私たちが口にできるとしたらこのような
ことでしかないと思い
ます状況できるのかね私にその力はあり
ませんしかし主が神が全教することを求め
られるなら
ば神がそれを必要だとして避けがいものと
して私の前に置かれるならば私には主
あなたによって耐える力も与えられると
信じますっていうことです
ね私に
え信教する力があるとは思えないだけども
神様がそういう風
にされるのであれば神様ご自身がその力を
です主に信頼しましょうえ最後にね聖書の
御言葉を読みしますコリントびへの手紙第
節神は真実な方ですあなた方を耐えられ
ない試練に合わせることはなさいません
むしろ耐えられるように試練と共に脱出の
道も備えていてください
ますはいえ今日も聞いてくさって
ありがとうございましたまたお会いし
Click on any text or timestamp to jump to that moment in the video
Share:
Most transcripts ready in under 5 seconds
One-Click Copy125+ LanguagesSearch ContentJump to Timestamps
Paste YouTube URL
Enter any YouTube video link to get the full transcript
Transcript Extraction Form
Most transcripts ready in under 5 seconds
Get Our Chrome Extension
Get transcripts instantly without leaving YouTube. Install our Chrome extension for one-click access to any video's transcript directly on the watch page.
Works with YouTube, Coursera, Udemy and more educational platforms
Get Instant Transcripts: Just Edit the Domain in Your Address Bar!
YouTube
←
→
↻
https://www.youtube.com/watch?v=UF8uR6Z6KLc
YoutubeToText
←
→
↻
https://youtubetotext.net/watch?v=UF8uR6Z6KLc